114. 驚愕!83歳の美声 ②

~自分との闘い~

僭越ながら人生観の方向性で、偉大な兼子先生と私自身に近いものを感じた点について

その根底に、ご両親の存在が浮かび上がりました。

母 「やす」 は、清元 をしていた生家の店で甲斐甲斐しく働く姿を、

兼子先生の父 「隆道」 に見初められ、それを知った祖父 「兼吉」 が

「お宅の遣り手の娘さんを、うちのいるかいないかわからないおとなしい倅のために

ぜひお嫁にください」
と直談判を成功させたエピソードがあるほど、しっかりとした

娘に対して躾が厳しい方でした。先生が幼い頃から母が口癖のように言っていたのは、

「あのね、身分で決して人を軽視してはいけないよ。

上には上があり、下には下があるってことを考えなければいけないよ。

上ばっかり見てはいけない。不幸な方々のことも見なくちゃあいけないよ」


そして、「お前は感心だね。不平を言わないことと、妹達と喧嘩しても決して

告げ口をしないし、陰口も言わないね」
と褒めることもあったといいます。

母の言葉を生涯守り、表面的な肩書きだけで人を判断せず、人間性そのものに

重きをおいた姿勢が特に共感出来る点です。

一方、お婿さんを早くもらって鉄工所の手助けをしてほしい家族が、先生の音楽学校

(現東京芸術大学)行きを大反対する中、おとなしい父だけが見方をしてくれました。

「お前がやりたいと思うならやりなさい。女の人というのは結婚しても幸福になる

とは限らない。不幸が訪れてくるかもしれない。そんなときに何か頼りになるものを

持っていなくちゃあいけないから、大変良いことだ。そのかわり必ずやり遂げろよ」


父の言葉通り、いかなる困難があろうとも、「音楽の道」 を究めた先生。


「いかなる困難」の中には、1923年の関東大震災、1941年~1945年の太平洋戦争など

逃れようの無い未曾有の天災や戦争も含まれているうえ、1914年に結婚して柳家に入り

「大変な家に飛び込んでしまったと思ったけれど自分が求めて入った生活なのだから、

自分で切り抜けなければしょうがないなと思い一生懸命努力しました」
と、言われていた

ように結婚生活はご苦労の連続であったようです。


「まわりとの闘いも大変だが、自分との闘いこそ一番骨が折れる」

事を成し遂げるための闘いは、自分との闘いであることを再確認させられた先生の言葉です。


柳兼子 同社女子大学より
柳 兼子 同志社女子大学HPより(左) NPJ通信より(右)

つづく 
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